閑人閑日

書くこと、描くこと、を書くとこ

酔わないドライブみたいな文体を求めて

読んでいて、視点の主が登場人物だと思っていたら急に物質目線になったり、違う登場人物に移ったりして、それも一つの文章のなかでそれが行われて、乗り物酔いのような気持ち悪さを感じたことってありません? 私は、ほんとうによくあります。あんまりひどいときにはそこで本を閉じて、読み進めるのを諦めることもよくあります。
大丈夫な人の方が多いと思います。そして、その人たちが鈍感で、私はこれだけ繊細なんだセンスあるでしょ?どやぁ、と言いたいわけではありません。作者、もとい創作するひとに言いたいことは、その奔放に視点を揺すりまくる文体になんら意図的なものがないのなら、酔わせていることに無自覚だったのなら、読者に気持ちのいいドライブを楽しませることを考えてみてはいかが?という提案です。
作品内容の評価以前に、酔うからと読者に途中で降りられたら勿体なくはないでしょうか。
私も物を書いたりするので、読者目線での話というより作者目線の話であって、正確には気持ち悪くならない文章にするためにはどうしたらいいのか? という程度の自問にしかなっていません。気持ちよくさせるのは夢のまた夢という程度。しかし、酔わせる原因が自覚できるのは価値があるのでは、と思っています。

(視点を固定しなくてはならない、ということではありません。酔わせないように、視点の操作が必要ではないかということです。視点が飛んでスムーズに元に戻るというのは詩ではよくあることです。その実例として最果タヒさんの作品については今後考えてみたいところです。)

当記事は実例として、同じ英文作品が翻訳者によってどう変わるかを、私のTwitterであげたものの「多少修正補足を加えたほぼアーカイブ」です。
フィリップ・K・ディックの"WAR VETERAN"(1955年発表)の冒頭数行の中の3文章を、浅倉久志訳と仁賀克雄訳とで並列させました。
分析出来ていないので対比ではなく、やっぱりお前のセンスいいだろどやぁ話ではないかと言われると言い返せません。今回は議題の提示でしかないと、お許しご了承ください。


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和訳した文章が日本語として不自然になるの、形容や修飾に一貫性がなくなるからだと思ってる。物質に主体を持たせる動きのある修飾と、観測する主体の感想でしかない物質の形容・評価が特にルールなくまぜこぜになった文章は、訳文っぽさを出そうとしてるなら成功してるけど視点が揺れて軽く酔う。

浅倉久志訳はどうだったかと読み直してみたら、やっぱりきちっとしてる。あるキャラからの視点で統一されていて、急に揺れたり飛んだりしない。原文(ディック作品しかうちに無いが)は当たってないけど動詞による修飾節がない英文はないと思うので、意識的に自然な日本語文として補正してると思う。

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ディックの"WAR VETERAN"(1955)は浅倉訳(新潮文庫「永久戦争」所収)と仁賀克雄訳(現代教養文庫「ウォー・ヴェテラン」所収)が手元にあるので冒頭数行を比較してみた。全体に明らかに統一の持たせ方の意識の違いが表れているが、特にはっきりと違う3ヶ所を並列させてみたい。

浅倉久志訳(あさくらひさし 新潮文庫「永久戦争」P85 1993年6月25日付発行)
 老人はぎらぎらと暑い日ざしの下で公園のベンチに腰かけ、通りかかる人びとをながめていた。
 公演は手入れがよく、清潔だった。百本ものスプレー管からほとばしる水しぶきを浴びて、濡れた芝生が緑の光沢を放っていた。ぴかぴかのロボット園丁がそこかしこで雑草を抜いたり、ごみを集めて屑かごに入れたりしていた。子供たちは大声で走りまわっていた。若いカップルは手を握りあい、日なたで眠そうにすわっていた。ハンサムな兵士の一団が、プールサイドで体を焼いている褐色の肌の娘たちに見とれながら、ポケットに両手をつっこんでのんびり散歩していた。公園の外から車の往来する音が聞こえ、ニューヨークの超高層ビルの尖塔が日ざしをきらきらはねかえしていた。

仁賀克雄訳(じんかかつお 現代教養文庫「ウォー・ヴェテラン」p158 1992年12月30日付発行)
 その老人は眩しいほど暑い陽射しを浴び、公園のベンチに座りながら行き交う人々を眺めていた。
 公園はこぎれいに整備されていた。何百本もの輝く銅管から送られてくる散水で、芝生は濡れて光っている。洗練されたロボット庭師があちこちを這い回り、草取りをしごみを集めては処理穴に入れていた。子供たちは走り回り歓声を挙げている。若いカップルは座って陽光を浴びながら眠そうに手を組んでいる。ハンサムな兵士のグループはポケットに手を突っ込み所在なさそうに歩き回り、プールの縁で日光浴中の陽に焼けた裸の娘たちを羨ましげに見ていた。公園の外では騒音を立てる車が走り、ニューヨークの聳え立つビル群がきらきら輝いている。

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公園は手入れがよく、清潔だった。(浅倉訳)
公園はこぎれいに整備されていた。(仁賀訳)
仁賀訳は、老人の目が周囲の状況を追っていく場面の最初で、「整備されていた」かは判断できないはず(臆断ぐせのある人物像を表そうとしているならそれでいいのだけど)なので、既に老人の視点ではなく、どこにでも目がある神の視点になっている。
浅倉訳は老人の視点だけど、おそらく、原文通りなのは仁賀訳。

ハンサムな兵士の一団が、プールサイドで体を焼いている褐色の肌の娘たちに見とれながら、ポケットに両手をつっこんでのんびり散歩していた。(浅倉訳)
ハンサムな兵士のグループはポケットに手を突っ込み所在なさそうに歩き回り、プールの縁で日光浴中の陽に焼けた裸の娘たちを羨ましげに見ていた。(仁賀訳)
ここも両翻訳者の視点の意識の違いは変わらない。仁賀訳はまた原文のままだと思われる。ポケットに手をいれて散歩してる→兵士が見る→陽に焼けた娘を、という修飾関係の英文だったのがわかる。そして、そのぐらい細やかな状況説明に釣り合うほどの単語数だったのだと思う。比べて、浅倉訳は淡々と、老人から判るだろう範囲に収めている。元の英文の形を、自然な、というより洗練させた日本語にするためにどのぐらい捨てていいのか、という自問はあるだろうけれど。

公園の外から車の往来する音が聞こえ、ニューヨークの超高層ビルの尖塔が日ざしをきらきらはねかえしていた。(浅倉訳)
公園の外では騒音を立てる車が走り、ニューヨークの聳え立つビル群がきらきら輝いている。(仁賀訳)
一例目と同じく、感じている主体の視点に合わせているのが浅倉訳。ここでもそうだけど、老人からポンと跳ねても視点が戻ってくる。
対して、騒音を立てる車のために公園の外に視点が飛んで、さらにビル群に飛んだままなのが仁賀訳。繰り返しになるけど、原文ままであろうのは仁賀訳。

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主語を抜く日本語と、主語を抜かない他言語を当てはめるように入れ換えられただけだと、乗り物酔いみたいになるタイプってのは私だけじゃないと思うけどどうなのか。少なくとも、一文中に其々主語付ければバラバラな文を混ぜていいってスタイルはメリットないし私は気持ち悪くなるし滅びればいいと思う。

雑余談
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全く空想で批評的価値はないが、二葉亭四迷が口語体文学の骨としてロシア文学を和訳したあと今も続く流れに対して、外国語文学原理主義的…は言い過ぎにしても原型を極力残す原文写実主義のような派があるような気がする。意図的に日本語として不自然でもよしとする派が。敬意のために価値を捨てる派。
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そこからさらに、日本語として不自然である小説文体、(空想だが)仮に新文語調と呼べるような、視点を揺すれば揺するほど価値が高く、突然モノローグが挟まれようとAの視点からBの視点へ奔放に飛び回ろうと、その揺れこそが小説だとする派ができている、ような気がする。あくまで私の空想。