閑人閑日

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酔わないドライブみたいな文体を求めて ~2~ 換骨奪胎

今回は、ある作品の視点を乗っ取り、その視点ジャックによって他作品を変えてみたら同じような乗り心地になるかを実験しようと思います。内容が不一致でも、むしろ内容が不一致であるのに乗り心地が同じになるなら、スムーズな視点の操作の価値だけが際立つはず、です。

実験には、構造的に一節一節が短く、頻繁に視点が動く散文詩を使います。

視界を乗っ取る作品は最果タヒさんの「つらら」 https://twitter.com/tt_ss/status/1459717710166724609?s=20 (新潮12月号掲載、2021年)。

全文転載は著作権侵害になる……いくら読まれないブログだろうとなるものはなるので、どこまでを連とするか、そこに何節あって、その一節一節はどの視点であるか、を頭二文字と尾二文字だけで示すことにします。本編は最果さんのツイッターか新潮を購入してご覧ください。乗り心地のいい、面白い詩だと私は思います。

視点記号はS、M、Lの3種であらわし、Sは「完全主観」、Mは「主観からの他の形容・評価」、Lは「主観外」。主観とは誰の主観か?については、今回は詩ということもあり「私」の主観ということに設定します。主観外はつまり「語り手」とか「神の視点」になります。「私」からの距離は今回は考慮せずに、主観外は全てLであらわします。主観からの他の形容・評価というのは、「私」が知りうるもの・こと、手の届くもの・こと、感じられうるもの・こと、そういった「もの・こと」が動く表現を指すこととします。前回の仁賀訳から例を出すと、「何百本もの輝く銅管から送られてくる散水で、」は「老人」からはL、「芝生は濡れて光っている」はMです(「語り手」の視点では違いますがそれはまたいずれ)。

 

まず、詩作品「つらら」を連(スラッシュ/)、節(かぎかっこ「」)、視点記号(S、M、L)で分解します。

「やさ……びに」S 「私の……り、」M 「流れ……私は」S 「空っ……って」L 「涙だ……いく」L /(1連目5節 S、M、S、L、L

「つらら」L 「かなしし」S 「あいい」S 「声」M 「まだ……ない」S 「まだ……ない」S 「生ま……のに」S 「生ま……で、」S 「この……で、」M 「目を……いる」S /(2連目10節 L、S、S、M、S、S、S、S、M、S

「あな……げる」S 「いく……言う」S 「そう……なる」L 「毎日……いる」L 「私の……ない」M 「世界平和」L 「世界平和」L 「世界平和」L /(3連目8節 S、S、L、L、M、L、L、L

「みん……好き」S 「それ……たよ」S 「それ……った」S 「全部……いい」L(M?) 「死がすき」S 「死が……すき」S 「でも……いの」S 「私は……とき」M 「きっと」M 「もの……する」M /(4連目10節 S、S、S、L、S、S、S、M、M、M

 

(内容が不一致のものを揃えるために大雑把な三種別にしたので、これで法則性を見出すことは出来ないと思います。ドミソだけで音楽ジャンルを仕分けるほうがまだ希望があります。)

 

自作の詩で近い形、字数のものに「遊園地」(2020,4,26)

www.pixiv.net

があるので、原形のまま、これもひとまず分解します。連、節、視点記号はさきほどと同じ。ルビが振れないのですが「瞶める」は「みつめる」と読んでください。

 

遊園地

「笑いは連れ去られてしまった」M 「嬉しさは連れ去られてしまった」M 「楽しさは連れ去られてしまった」M 「離れていく観覧車から」M 「私たちは瞶めていた」S 「ジッパーは 急速に 裂かれていった」M(L?) 「落下して 捻じ回って」L 「音も消えた」L /(1連目8節 M、M、M、M、S、M、L、L

「私たちのオーバルの始終点で」L 「完全に分断された遊園地で」L 「空っぽのコースターは待っているだろうか」L 「私たちは」S 「留め具の」M 「先を」M 「嚙めるだろうか──」M(L?) /(2連目7節 L、L、L、S、M、M、M

「<最後尾、六か月待ち>」L /(3連目1節 L

「連れ去られた事々と暮らしていた私たちは」L 「空っぽのコースターに乗り合わせて」M 「赤錆びた 留め金を噛ませて」L 「走り去る」M 「音が消え去って」L 「消えたことも 観覧車は知らない」L 「遠く 楽し気に回っていく」L 「私たちは賑やかに乗り合わせていく」L(M?) /(4連目8節 L、M、L、M、L、L、L、L

 

ざっとした三種別だと言ったけど、S少ないし、L多いな! 主観を「私(たち)」に設定して分別したけれど、自分でも読んでて「どっち?」という箇所があって、作り込みの甘さをなんとなく雰囲気で誤魔化せるだろ感が恥ずかしい詩です。「私」に見えてないものが読者に見えるわけがないですし。

そして、節と連は足せますがLになっているモノはMにならないので、登場するモノを変える、または増やす必要があります。MをLにするなら、たとえば目をつぶればいいだけなんですが、LをMにするには「私」をかなり嘘つきに変えないとなりません。「私」を変えてしまうと原形との間にさらに不一致が生まれると思うので、それはまた今度。

今回は計画通り、自作を9節(33節-24節)足して、4連それぞれの節数と奪った視点を揃え、うわべの換骨奪胎を施します。

 

遊園地(つらら奪胎版、第一稿)

 私たちは瞶めていた 観覧車は離れていく つぎはぎしてきた思い出が ジッパーに乗って一思いに裂けて走っていった 落下して捻じれ回って音も消えた

 開襟された空虚に遊園地は二分された 私は楽しくて 嬉しくて ぐるりと帰ってくると笑いあって 愛なんてわからないけれど おそらく たぶん 好きだった 千切られた思い出を 瞶めていた

 嘘だから 好きというのもいわれるのも辛いから 嬉しさがゴンドラに吸いとられ 楽しさがゴンドラに吸いとられ 観覧車の始終点から伸びる行列の終わりは見えなかった ジッパーは裂きつづけて走った 行列の最後尾には看板が立っている <二年待ち>

 私はコースターに乗り合わせて 笑って 瞶めていたようだ 背後で赤錆びた留め金が噛みあう 私たちだった気もするし 私だけだった気もするけれど 賑やかに 観覧車は遠ざかって コースターに揺すられながら きっとつぎたし方を間違える

 

どうでしょう。乗り心地はかなり近づいたのではないでしょうか(内容は不一致でいいのです。内容が無いとかはいいのです。いいのです)。

試作して気づかされたのは、私はSの表現が苦手なことと、今まで詩を読んでいても表現を採集していなかったこと。普段から意識的に採集しておくことの必要度は確認できました。

今回の実験では「私」=Sが多い最果さんの詩を使わせていただきましたが、詩に限ってみても、語り手が主格のものもありますし、語り手が登場人物の身になるものもあります。語り手=作者とは限りません(そのパターンの方が多分少ないと思いますが)。その場合のSMLという大雑把な三種別は、範囲が変わります。

酔わせない事を目的として視点を操作するために、酔わない文章作品を分解することはそれに資すると思います。ただ今回の目的は「内容によらず、視点のみによって乗り心地は変わるのか」でしかなく、酔わせないための法則性を導くものではありません。

それでも、ヒントはあったと思います。ありましたよね。内容のない私の詩の、Sの少なさ、比べてLの多さ、というのはこれからの作品を作るときに意識できるなと。そもそも「私」=Sの表現が苦手なので、文章作品は向いてないんじゃないかとは思いますが。それはおいといて、あるジャンルに共通する特徴、又はそこにカテゴライズされるための条件の中に「主格の視点はどこか」というものはある、と思います。

 

酔わないドライブみたいな文体を求めて

読んでいて、視点の主が登場人物だと思っていたら急に物質目線になったり、違う登場人物に移ったりして、それも一つの文章のなかでそれが行われて、乗り物酔いのような気持ち悪さを感じたことってありません? 私は、ほんとうによくあります。あんまりひどいときにはそこで本を閉じて、読み進めるのを諦めることもよくあります。
大丈夫な人の方が多いと思います。そして、その人たちが鈍感で、私はこれだけ繊細なんだセンスあるでしょ?どやぁ、と言いたいわけではありません。作者、もとい創作するひとに言いたいことは、その奔放に視点を揺すりまくる文体になんら意図的なものがないのなら、酔わせていることに無自覚だったのなら、読者に気持ちのいいドライブを楽しませることを考えてみてはいかが?という提案です。
作品内容の評価以前に、酔うからと読者に途中で降りられたら勿体なくはないでしょうか。
私も物を書いたりするので、読者目線での話というより作者目線の話であって、正確には気持ち悪くならない文章にするためにはどうしたらいいのか? という程度の自問にしかなっていません。気持ちよくさせるのは夢のまた夢という程度。しかし、酔わせる原因が自覚できるのは価値があるのでは、と思っています。

(視点を固定しなくてはならない、ということではありません。酔わせないように、視点の操作が必要ではないかということです。視点が飛んでスムーズに元に戻るというのは詩ではよくあることです。その実例として最果タヒさんの作品については今後考えてみたいところです。)

当記事は実例として、同じ英文作品が翻訳者によってどう変わるかを、私のTwitterであげたものの「多少修正補足を加えたほぼアーカイブ」です。
フィリップ・K・ディックの"WAR VETERAN"(1955年発表)の冒頭数行の中の3文章を、浅倉久志訳と仁賀克雄訳とで並列させました。
分析出来ていないので対比ではなく、やっぱりお前のセンスいいだろどやぁ話ではないかと言われると言い返せません。今回は議題の提示でしかないと、お許しご了承ください。

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